走ることは私の一部。気がついたらなぜか走ってしまうこの私。
ここ数年、年に一度はフルマラソンを走っています。
今年は東京マラソンではなくて、前から走ってみたかった横浜マラソンに初参戦。
よく聞かれます。「なぜ走る?」「あんなつらいこと」実は私自身もその答えが二転三転。

運動会で一番の花形種目はリレーであると思っている。人の走る姿は心をつかむ。見ている人の心を躍らせる何かがある。東京マラソンはそのコース上に二カ所の折り返し地点があり、わずかな時間だが折り返してくる世界トップクラスのランナーの雄姿を、手を伸ばせば届くような距離で堪能できる。

昔一度だけ競馬場に行ったことがある。馬券はさっぱりだったが、ドドド・・・という地鳴りとともにやってくるお馬さんの集団の迫力にしばし立ち尽くすことがあったが、それでも人間様の方が美しい。

鍛え抜かれた見事な体。背筋が伸び、体幹がブレず、しっかりと遠くを見据えたするどい眼差し。馬の走る姿はみんな同じように見えるが、マラソンランナーのスタイルはみんな個性的。それぞれきっと一人一人長い時間をかけて最適化されたランニングフォームなのだろう。その違いを見るのも楽しい。

スピードに乗って空気を切り裂くような集団。突き抜けていく風圧は電車のすれ違いのよう。それを横目で見ながらトコトコ走る私。

昔ストレス解消は東名高速を好きな音楽を聴きながら疾走することでしたが、今は秦野市内を流れる水無川沿いを時速10キロオーバーでやはり好きな音楽を聴きながら疾走すること。

自分ではどちらも突き抜ける感覚がほしくてやっている。

そうなんだ、突き抜ける何かが欲しくて昔はよく自転車にも乗っていた。見通しのよい下り坂、かなりのスピードで駆け抜けるとき、ゴーッという音しか聞こえず、そのまま高速でカーブに入る。ハンドルを切り、身体を傾けると同時にコーナーをきれいに旋回していくあの張りつめていて突き抜ける感覚。一つ間違えると大けがに繋がるひりひりする緊張感 快感は危険と表裏一体 こんなものを走り求めていた そしてランニングにも二つのタイプがある。

考え事をしながら走るときは軽めのジョギング。不思議と考えがまとまったり、前向きな気持ちになれたりする。
起きてしまった出来事は変えられないけれど、走った後は明るい捉え方になっている。
無心になりたいときは速めを選ぶ。

車でいうとアクセルを踏み込むようにスピードを上げ続けていくとある瞬間体の中でシュパーッと音がして吹き上がる感覚、でも「それで終わりではない」と言い聞かせてさらに踏み込むとゴーッという音しか聞こえなくなるわずかな距離だが全力疾走で自分の体でスピード感を味わう。

前日の炭水化物祭りも楽しい。ケーキも目いっぱい、大福さんとうどんも。食べたいと思うものを食べる。これが楽しい。せっかくなら目標を決めなければということで、年一回はフルマラソン。これが数えること7回。
でも情けない話だが、いつもいつもフルマラソンの日が近づくと怖くなって少し憂鬱である。
また膝を壊して何年もまともに歩けなくならないか、完走出来なくなったらどうしよう、とか、途中で倒れないかとか、なぜかネガティブが頭に入り込む。

何度かランナーが救急車で搬送される光景を見ているのが目に焼き付いているからかなあ。あれ、自分ってこんなに弱気だったっけ?と思うことも。毎回自分の弱さとか未熟さと向かい合って、そこに進歩がない。乗り越えていない。だからそこが怖くて練習するのだけれど、自分を動かすのは楽しさより不安や心配恐怖なのか?それだとマラソンはつらい。そしてそれがスタート直前まで払拭できない。

なんでエントリーしたのかなとぼやきながらスタートゾーンに並んでいる。それが一変するのが「スタート5分前」のアナウンスを聞く時だ。体中に少しずつアドレナリンが充満していく。小刻みにアップを繰り返して体中をバンバンと叩くうちに体と気持ちがシ ンクロして「よしいける」42キロに挑みかかる気力がわいてくる。私だけではない、スタートを待つ約3万人の集団の走れる喜びが一体となっていく。みんなの想い、気分の高まり、それが自分を包み込む。この一体感、これが欲しくてやめられない。そしてスタートの号砲。みんな一斉に解き放たれたように走り出す。

気分が最高に高揚する。この瞬間も楽しい。歓声に包まれる。たくさんのハイタッチで送り出される。しばらくすると「あと40キロ」の表示。ここで急速に我に返って気分が萎える。「あと40キロも走るのか」この気持ちのアップダウンが毎回。横浜マラソンのコースは高速道路も含まれる。

高速道路は車で駆け抜けると気付かないけれど、細かいアップダウンの繰り返しが続く。しかも景色が単調。沿道で応援してくれる人もいない。丁度30キロ辺りのつかれ始めたころの細かいアップダウンは次々と心を折りに来る。
ちょっとしたメンタルの揺さぶりが大きく結果に響く。そんな普段体感できない感情の浮き沈みも走っていればこそ味わえるもの。ここを乗り越え、最終盤、秋の横浜、落ち葉と紅葉は疲れを忘れさせてくれる美しさ。立ち止まってシャッターを繰り返し押す。

色んなことを含めてフルマラソンは非日常が楽しい。ゴール直前になると急に元気になる。まだあと5キロくらい平気で走れそう。ベイブリッジを向こうに見ながらゴール。ゴールするのが惜しいくらい余力があったのに。倒れ込んでほっとしたとたん、足が上がらなくなる。これも不思議。気持ちが切れたらエネルギーがもう残っていないことに気付く。いつだったか70歳を軽く超えているだろうという方が走っていらっしゃった。その方と伴走しながらお話を伺ったことがあった。「楽しむこと。すべて走り切る必要はない。走ったり歩いたり、歩いたり走ったりを繰り返す。自分の心と体とうまく折り合いをつけられる。これでいくつになってもフルを完走できる」マラソンを走ることは色々なことに例えられるけれど、「自分の心と体とうまく折り合いをつける」これも金言をいただいた。

自分のマラソンはいつも痛みを感じ、痛みと折り合いをつけながら走っている。
痛みという感覚も不思議。

昔、膝が痛くて曲げられず、正座もできず辛かった期間が2年くらいあり、痛みの記憶は鮮明に残る。だから少し違和感があるとまた痛くならないように色々気を使いだす。そしてそのうち意識が膝から離れなくなっていく。
普段もうなんともなく生活しているのに、フルマラソンの度に痛みを引き出してしまっている。いつも15キロ通過したあたりからだ。「痛みという感覚は感情を伴う」あるいは「感情に裏打ちされた痛みは根強くなかなか引いてくれない」とはよく言ったものだ。

歯科の仕事をしていると日々患者さんの痛みと向き合っているのだが、目視やレントゲン写真上でどうみても痛みが無いはずなのに、痛みを強く訴える方もいれば、なんでこれで痛くないの?という状態でも「にこっ」と笑って別に平気です!とおっしゃる方もいて、そのような方々に寄り添うためにも医療者として理屈でない痛みの感覚を体感しておくのも必要な事。

≪これは東京マラソンの時の写真≫

患者さんの立場、心情を共感できるのもマラソンのメリットかも 患者さんに生活習慣の改善を進める立場上自分もまず 自分を律せねば示しがつかない
というわけで目標は還暦になってもさらりと42.195キロを軽やかに走り抜けること。
なぜ走るのか、もともと人間は走るのが楽しくなるような体をもって生まれてきたのではないか。
ただそれに気づいているかどうか。私は気づいてしまった一人です。
それが今の答え。共感とれましたか?