東日本大震災から3年たった。
驚いたことに現在も避難されている方が26万人もいる。阪神淡路大震災のときにも避難を余儀なくされている方は多数存在したが、決定的に違うことがある。
その多くの人が自分の生まれ育ち住み慣れた自分の住処に帰れていないことだ。しかもこれから先自分が生きている間には帰還することができないかもしれない不安、この不安をある日突然突きつけられた方の心中をお察しすると私の想像力では言葉が出てこない。3月11日を境に家族や地域が分断されてしまう。被災された方へ陳腐な言葉の上での慰めや励ましはむしろ失礼に当たるのではないかとさえ感じる。私たちができるのはその方たちの置かれた境遇に想いをはせてわずかでもその悲しみを引き受けて忘れないことではないかと思う。被災地のために何かをしなければならないのではと、自問自答をする日々もあったが 結果的に自分が行ったことはできる範囲で募金をすること、いつまでも関心を持ち続けること、後は自分の持ち場で自分の仕事や生活を守りながら、やるべきことをやり、あたり前のように続く日常に感謝すること。被災地の方には直接には結びつかないかもしれないがこのぐらいであった。
今も起きている問題の根本は原子力発電のあり方だ。地震や津波は確かに天災であるが、これは人災の要因も強いのではないか?
地震が発端となり東京電力福島第一原子力発電所に大津波が襲来し、原子炉を冷却するはずだった電源が次々と力尽きた。電気を作る施設が水をかぶって電気を作れなくなってしまうなんて皮肉な話だ。悪夢のような光景が続く。冷却できなくなった原子炉が暴発、度重なる火災や水素爆発、言葉を失い事の成り行きを固唾を呑んでテレビを見守る。チャイナシンドローム、メルトダウン、最悪の事態が刻々と近づいてくる。自衛隊のヘリが大きな袋をぶら下げて、海水をすくい出し上から放水する。でも水が届いてない。なんと原始的で頼りない。一時は福島第一発電所からの完全撤退も検討されたと聞く。そうなれば東日本壊滅の危機もあったという。
東京消防庁ハイパーレスキュー隊が崩壊する原子炉建屋に近づき消火活動をする。自分の命をこのために投げ出す覚悟がなければできない この人たちにも家族が居るはずだ。
自分はこのような侍になれないかも。
現在も汚染水が次々と太平洋に漏れ出しているかもしれない。大気中にどれだけの放射性物質が拡散されたか、誰もわからないし、誰も責任を取れないだろう。わかったとしても数十年も先では、当事者、責任者はもうこの世の中に居ないかもしれない。
「直ちに人体に影響はない」この言葉を繰り返し聞かされるたびに、この人たちは何かを隠していないのか、そのように感じた人も多かったのではないだろうか?
地区ごとに輪番停電が実施された地区は全く電気が供給されなくなった。いつも利用している秦野駅も計画停電の影響で照明が落とされプラットフォームが真っ暗になった。この光景を見てこれはただ事ではないという事実が腹の底まで落ちた。
そもそも原子力発電は安全だったはずではないのか。あれだけ安全安心をアピールしてきたのは何だったのか。事故後、安全神話の崩壊、あるいは想定外という言葉が飛び交ったが、安全安心と考えていた事もいとも簡単に崩れる怖さを身にしみて感じた。
人間のすることだから100%の安全などない。しかしだからそれでいいというわけではない。原子力発電のように人間の身体・健康に関わるものは特にそうだ。交通・食品も何も不安がないことや100%の安全であることを要求される。
私の仕事である歯科医療も同様だ。医療こそはそれを受ける人は何よりも安全を求める。安全安心と一言で言われるけれど、安全とは客観的な事実で科学的な裏づけがあるもの、設備 技術 知識など理科系的なもの、安心は感覚的なことで感性や感情で文科系的なもの、安全と安心は本来は別物。どんなに理科系的なものを積み上げても伝え方や表現という文化系的なものを欠いていれば医療が展開できない。
医療を提供する側からすれば科学的な裏づけや事実がなければ患者さんに安心を提供できないし私たちも安心という感情を得ることができない。安全であると言う事実を積み上げることは簡単ではない。昨今マイナスの報道が繰り返されるインプラント治療はとくに安全安心であることが必要とされる。
この年齢になると誰もが避けられない現象として、老眼がある。私の世代の歯科医が集まると“俺も来たよ、老眼が”と言う話題になる。私もその一人であるがだからと言って昨今普及されているレーシック手術を受ける気にはまだならない。それは簡単な理由で、怖いからだ。他の診療科に受診するときには私も一人の患者でしかない。
昨年、日本口腔インプラント学会の専門医を取得した。開業医にはかなりハードルの高い資格であったが、この取得の理由は、安全安心なインプラント治療の実現とその普及である。専門医と言うと、難症例を特殊な技術で解決するようなイメージをもたれることもある。それが要求されることもあるが、この学会の専門医資格の趣旨はそれではない。
インプラント治療が必要な症例の大半である難しくないとされる症例をいかに安全で確実に実践できるかが問われている。その実践の積み重ねが患者さんと私たち双方の安心につながる。患者さんの気持ちを軽く、明るくしてあげられると患者さんの豊かな毎日にもつながる。医療を提供する私たちも安心したいのである。その為には、福島第一原発の大惨事は教訓だ。失敗学と言う学問もあるらしい。どのように想定外を想定内に組み込むのか。数百年に一度の大津波をいかに想定するのか。そしてそれに対策を講じるのか。経営的な都合や人員の不足で安全対策の下限を下げないようにする。事前の患者さんへの説明と何かが違った場合にいかに患者さんに適切な情報提供をするのか。これが難しい
「直ちに人体に影響はない」この言葉は医療の現場では通用しない。都合の悪いことは起きなったことにしたいのは人間の弱い性でそこと向かい合わなければいけない 。
被災地のために何ができるのかを考えたときの答えのひとつに、自分の持ち場で自分の仕事でやるべきことをやることだった。これは原発事故を教訓として歯科医療の安全安心のレベルを上げることだ。これが患者さんの豊かな生活につながる。
震災から3年たったのだが、いろいろなことが風化されてきていると私も感じている。まだ10万人以上の方々が仮設住宅で生活されているそうだ。この方たちが自分たちは切り捨てられていると感じているとしたら、大変なことだ。
自分たちに何ができるのか? 自問自答をする毎日を続け、もっといい答えが見つかるようにしたい。